感情形容詞は感情を表現しているのであって、それを形容しているのではない。
では感情形容詞が形容する対象は何であるか?
感情と感覚は共に感じるものであるという点で共通する。
そこで感覚形容詞なるものについて考えよう。
感覚形容詞とは対象が人間の感覚器官を刺激することによってもたらされる感覚に起因する形容詞であり、例えば「赤い」「熱い」「臭い」等がその実例である。
例えば赤い薔薇が太陽光の下で赤いのは、その物が太陽光の中に含まれる特定の波長の光(赤い光)だけを反射するからである。
赤い薔薇が反射した光は人の視神経を刺激し、その結果、人は赤さを感じる。
しかし、人がそのような科学的知識を持つ以前から「赤い」という語は存在した。
そして、その語は赤い物を形容していた。
すなわち、「赤い」という述語の主語は赤い物である。
赤さは赤い物が持つ性質として把握されていた。
感覚形容詞は感覚を表現する語ではなく、対象が持つ性質を表現する語である。
「赤い」という語が形容する対象は「何が赤いのか?」という問に対する答である。
同様に「悲しい」という語が形容する対象は「何が悲しいのか?」という問に対する答である。
「この薔薇は赤い」という文の主語が「この薔薇」であることは自明である。
とすれば「私は彼の死が悲しい」と語るとき、その文の主語は「私」ではなく、「彼の死」でなければならない。
赤い薔薇という対象が人に「赤い」という感覚をもたらすように、「彼の死」という対象(現象)が人に「悲しい」という感情をもたらす。
違いは、赤い薔薇は誰に対しても「赤い」という感覚をもたらすが、「彼の死」が誰に対しても「悲しい」という感情をもたらすとは限らないという点である。
感情は私的なものである。
痛みが感情ではなく、感覚であることは明らかである。
痛みは感覚であるが、しかし「痛い」という形容詞は感覚形容詞ではない。
むしろその語は感情形容詞に近い。
痛いという感覚は感情のように私的なものであるからである。
だから感情形容詞と同様、「痛い」という形容詞には「痛む」という動詞が対応する。
しかし「痛む」という語が人称代名詞を主語とすることはない。
痛みを感じている人について「彼は痛む」などと語ることはできない。
「痛む」という動詞は「痛み」を感じている人の振る舞いを指示する語ではない。
さらにまた、悲しんでいる人に対して「何が悲しいのか?」と問うことはできるが、痛がっている人に「何が痛いのか?」という問うことはできない。
問うならば「どこが痛むのか?」と問わねばならない。
例えば人が頭を棒で強く殴られたとする。
そのとき彼は頭に強い痛みを感じる。
だが、棒は痛みをもたらした切っ掛けであって、痛みの原因ではない。
頭に痛みをもたらしている原因は頭にある。
そのことは棒と頭の接触は一瞬であっても、頭の痛みは持続することから明らかである。
「歯が痛い」原因は虫歯にあり、「胃が痛い」原因は胃潰瘍にある。
痛みを感じることは、赤さを感じるのはまったく違った体験である。
痛みを対象の性質として把握することは不可能である。
痛みは感情と違って合理的である。
「私は本当に悲しみを感じているのか?」という疑問を抱くことはできるが、「私は本当に痛みを感じているのか?」という疑問を抱くことはできない。
赤い物から放出される光は必然的に赤いように、痛みの感覚は痛みの原因と必然的関係にある。その意味で痛みの感覚は感情と違って、私的ではない。
人は激しい痛みを感じたとき、誰もが思わず悲鳴にも似た口調で「痛っ!」という言葉を発する。
英語圏の人ならば「Ouch!」と言う。
「痛っ」や「Ouch」という語は感嘆詞という品詞に分類される。
さらに、それよりも強烈な痛みを感じたときには、もはや言葉ではなく、まさに悲鳴を発する。
かろうじて言葉になってはいるが、しかし思わず発せられる感嘆詞「痛っ」が形容詞「痛い」の語源である。
では英語のOuchは感嘆詞に留まっているのに、なぜ日本語の「痛っ」は形容詞に転化したのだろうか。
英語では主語の無い文というものは例外的にしか成立しない。
(英語の命令文は主語が存在しないのではなく、それが省略されているのである。)
その例外的文のひとつが「Ouch!」という文である。
それはひとつの語だけで構成される文である。そこには主語も述語も存在しない。
ところが日本語では主語が無くても文として成立する。
「痛い」という語は述語(「痛い」という形容詞)だけで構成される文である。
感嘆詞「痛っ」を語源とするその語は本質的に主語を持つことができない。
だから「痛む」という動詞が存在する。
「私は頭が痛む」と言えば、「痛む」という述語(動詞)に対応する主語は「頭」である。
「私は頭が痛い」の主語は「私」でも「頭」でもない。
その文に主語は存在しない。