シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

「2014年7月17日、早稲田大学は死んだ」そうである。

http://www.huffingtonpost.jp/iwao-yamaguchi/2014717_b_5594677.html

強盗・障害など26件の犯罪で起訴された容疑者が、裁判所で犯罪の認定を受けたにも拘わらず無罪の判決を勝ち得たら驚いてしまう。同時に、一般国民としては日本の刑事司法はどうなっているのか?と訝しく感じるに違いない。今回の早稲田大学調査委員会決定も同じ事だ。

 しかし私は喩が適切でないと思う。本来、次のように喩えるべきである。

「強盗・障害など26件の犯罪で起訴された容疑者が、完璧な証拠があるにも拘わらず裁判で無罪の判決を勝ち得たら驚いてしまう。と同時に、一般国民としてはその裁判所はどうなっているのか?と訝しく感じるに違いない。今回の早稲田大学も同じ事だ。」

そして検察は当然、控訴する。そしてその控訴審の判決が調査委員会の判断に相当する。

 「早稲田大学・大学院先進理工学研究科における博士学位論文に関する調査委員会

本件博士論文には、上記のとおり多数の問題箇所があり、内容の信憑性及び妥当性は著しく低い。そのため、仮に博士論文の審査体制等に重大な欠陥、不備がなければ、本件博士論文が博士論文として合格し、小保方氏に対して博士学位が授与されることは到底考えられなかった。

これを先の喩に倣えば、次のように言い換えることができる。

「本事件には、上記のとおり多数の証拠があり、内容の信憑性及び妥当性は著しく高い。そのため、仮に証拠調べに当たった裁判官に重大な欠陥怠慢がなければ、小保方被告人に対して無罪判決が言い渡されることは到底考えられなかった。」

この流れからすると二審判決(調査委員会の判断)は当然、有罪(博士号取消)となるはずであるが、あにはからんや「そのまんまでええやん」という判断であった。その理由として、調査委員会は

 上記問題箇所(「不正の方法」に該当する問題箇所)は学位授与へ一定の影響を与えているものの、重要な影響を与えたとはいえないため、因果関係がない。

と述べている。

 「2014年7月17日、早稲田大学は死んだ」の筆者は、調査委員会の判断が博士号取消とならなかった理由について、早稲田大学

小保方氏の弁護士を使って理研を揺さぶる遣り口を目の当たりにして、同じ手口を早稲田大学に使われては敵わないと考えたに違いない。

と推測している。しかし私は他にも理由があると推測する。

調査委員会は論文審査がまともに行われていれば「小保方氏に対して博士学位が授与されることは到底考えられなかった」と言い切っている。小保方さんの博士論文も杜撰であるが、しかしそれ以上に論文の審査体制が杜撰であった。例えば入学試験で到底、合格できないような答案を杜撰な採点で合格としてしまった。その学生が卒業した後に答案を再度、採点したところ、合格点には遠く及ばないことが分かった。そのとき大学が学生に対して「あんたの入学は取り消します。今後は履歴書に『〇〇大卒』とは書かないでね」と言えるであろうか(いや、言えない)。

調査委員会は最後に次のように述べている。

早稲田大学がひとたび学位を授与したら、それを取り消すことは容易ではない。それほど学位の授与は重みのあるものである。早稲田大学において学位審査に関与する者は、その重さを十分に認識すべきである。

学位の取消が容易にできると考えてもらっては困る、いったん授与した学位はよっぽどのことがない限り取り消せない、だからこれからは学位論文の審査は慎重にやれ、と調査委員会は早稲田を叱っているのである。当然のことながら早稲田によって「捏造」された「博士」は小保方晴子博士ひとりではないはずである。

一方、調査委員会は小保方さんに対しては寛容である。それは死者に鞭打つようなことはしたくないからであろう。学位を取り消さずとも、小保方さんは「博士」としては、すでに死んでいる。

早稲田大学はまだ死んでいない。そしてこれから

小保方「博士」

という重い十字架を背負って生きていかなければならない。調査委員会の「そのまんまでええやん」という判断の背景には、早稲田大学に対する愛の鞭(あるいは愛はなくて鞭だけかもしれないが)があるのではないか?

 

博士という学位はカッコつけるためにあるわけではない。しかし博士にはカッコが付く。そのカッコの中には自分の専門分野が入る。例えば「博士(工学)」のように。しかし早稲田の大学院で博士号を取った場合だけは例外とすべきではないか。

博士(早稲田) 

というように。