シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

「小保方さんを『笑いもの』にするな」と主張するイケダハヤトさんを「嗤う」

小保方さんを「笑いもの」にするな:「嗤い」と「笑い」は違う

http://bylines.news.yahoo.co.jp/ikedahayato/20140504-00035034/

 

 ネット上では「これ(小保方晴子氏をネタにしたコントがオンエアされなかったこと【引用者注】)を批判する人間は笑いを理解していない」という声も見かけるのですが、それこそ、「笑い」を理解していない人の意見です。

私はそのコントを非難する人を批判しました。ということは私も「『笑い』を理解していない人」になるのでしようか。しかし私から見ればイケダさんこそ「笑い」を理解していないように見えます。

 

「笑い」と「嗤い」は違います。「小保方晴子氏をネタにしたコント」は「嘲笑」「あざけり」「嗤い」に属するものでしょう。これは健全な「笑い」ではなく、いじめっ子がいじめられっ子をクラスの面前で「いじって」、侮辱するようなものです。

最初に私の口からはっきり言います。「嗤い」は存在しません。しかし

「笑い」は存在します(キッパリ)!!

まず「笑う」という行為と「笑い」という存在を区別することが必要です。例えば「感動」という存在と「泣く」という行為について考えましょう。「感動」が心の中に存在するから、涙もろい人は泣くのです。そうでない人は泣きません。だからといってその人の心の中に感動が存在しないわけではありません。

人の心に感動が存在するのは、それが届いたからです。それを届けるのはクロネコヤマトである場合もあれば、日本郵便である場合もあり、さらにフジテレビである場合もあります。問題は誰が届けるかではなく、何を届けるかです。届けるものの中に感動が存在するから、それを受け取った人の心に感動が発生する(その人は感動する)のです。その結果、泣くかどうかはどうでもいい問題です。

「笑い」も同じです。問題は届けられたものの中に「笑い」が存在するかどうかです。今回は問題のもの(コント)は届けられなかったので、判断のしようがありませんが。

「笑い」が存在すれば、それに付随する「笑う」という行為は本質的な問題ではありません。しかし存在しない「嗤い」については「嗤う」(=馬鹿にする)という行為だけが問題となります。そしてその問題については、人を嗤うことはよくないことだということだという点ではイケダさんと同意見です。しかし、そもそも「笑い」と「嗤うこと」を同列に並べて、後者を健全な「笑い」ではないと論じることはナンセンスです。

 

こうしたネタが「笑い」の域に達するためには、「相手が傷つかないこと」がまず求められます。

どんな場合であれ、人を傷つけることはよくないことです。当たり前のことです。しかしイケダさんは相手に対してそれ以上の配慮を求めます。

 

次に、「対象に対するケア(愛情)」が求められます。愛情を装うのは簡単ですので、ここは注意深く見る必要があります。ネタの相手を消費するような態度では、「笑い」の域に達することができません。その「笑い」によって、相手の人生を前進させるようなケアが求められます。

 ゴキブリをネタにしてコントを制作する場合、ゴキブリに愛情を持たなければならないのでしょうか。ヒットラーをネタにした映画『独裁者』には彼の「人生を前進させるようなケア」が施されていたのでしょうか。

 

最後に、誰かを不快にした時点で、それは健全な「笑い」とはいえません。ぼくは実際、このニュースを聞いて不快になりました(放送を取りやめたのは、望ましい判断だと思います)。「不快な笑い」というのは語義矛盾でしょう。

人を不快にするようなものの中には絶対に「笑い」は存在しません。しかしイケダさんはコントそのものを見て不快になったのではなく、ただ「小保方さんをネタにしたコントが放送される」というニュースを聞いて不快になっただけですね。私としてはそのコントの中に「笑い」が存在しないこと、それが人を不快にさせることを確認してから批判するべきだと思うのですが。 

イケダさんの頭の中では「小保方さんをネタにしたコント」=「小保方さんを嗤うコント」という等式が成立しているようです。それなら初めから単純に「小保方さんをネタにしたコント」を作るなと主張すればいいのであって、変な理屈をつけるから私のような「笑い」にうるさい阿呆から批判を受けるのですよ。

 

「笑い」と「嗤い」は違うこと、「嗤い」は強い暴力性を持ちうるということを、ぼくら大人は伝えていかなくてはいけません。

「笑い」と「嗤うこと」は違うこと、「嗤うこと」はやってはならないこと、それを伝えることは、私のような阿呆が伝えても説得力がないので、良識あるイケダさんにお任せします。私が伝えたいのは人をネタにして「笑い」を作り出すには細心の注意が必要であり、また細心の注意を払っても当事者を傷つけるリスクは伴うということです。そうしたリスクを冒すぐらいなら人をネタにして「笑い」を作ることは止めようとなるのが良識ある人間です。しかし、そもそも良識ある人間に「笑い」は作れません。

「笑い」の創造者に様々なリスクやタブーに果敢に挑戦することを期待する私はやはり阿呆なのだ。