シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

感動はいらない、笑いをください、と声を大にして言いたい 今日この頃である。

小保方さんの反論会見をパロったコントが中止になるかもしれない、というニュースが流れた。もしこのニュースがなければ、私はそのようなコント番組の存在を知らずに見逃してしまっていただろう。私は最近、ほとんどテレビを見ない。しかし結局、そのコントは放送されなかった。残念である。

そのコントは笑えるか、笑えないか、実に興味があった。近頃のテレビは偽物の感動は届けてくれるが、真の笑いは届けてくれないようである。

 

実は私は笑いに関しては少々うるさい。

 

もし私が記者会見を開いてまず「STAP細胞存在します」と言う。ここで記者はどよめく。しかし私の発言はそれで終わらない。さらに続けて

またはSTAP細胞存在しません」と言ったとしよう。すると記者は「オマエは何を言っているのだ。それは何も言っていないに等しいぞ。何のための記者会見だ」と怒号が飛び交うであろう。

では「STAP細胞存在しますかつSTAP細胞存在しません」と言ったらどうか。この発言は先の発言の否定になっている。すなわち「何も言っていない」ことの否定になっている。つまり「何かを言っている」ことになる。でも何を言っているのか理解できない。だから記者は絶句する。そこに笑いの原料がある。

何を言っているのかわからないけれども、笑える。それは発言の内容ではなく、どういう状況でその発言が出たのか、あるいは発言者の仕草・表情などで、理解できないという状態を笑いに誘導するということである。これには発言の内容で笑いをとるよりも、より高度なテクニックが要求される。

 

真の笑いは理屈ではない。なぜ笑えるのか説明できないのが真の笑いである。

真の笑いの原料は矛盾である。 

笑い (岩波文庫)