シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

わたしは、バイリンガル

日本語とフランス語、どちらもOK、と言う若くて美しい日本人女性(老いて醜いフランス人男性でも可)がいたとしよう。

その女性にコクる前に、まず尋ねよう。

 

あなたは考えるときは、何語で考えますか? と。

 

あるときは日本語で、またあるときはフランス語で、と答えたら、その女は嘘つきである。

いくら若くて美人で梅林ガールだからといって、付き合うのはやめた方がよい。

考えるときは必ず日本語か、フランス語かどちらか一方で考えているはずである。

例えば彼女が「日本語で考えます」と答えたなら、教えてあげよう。

 

あなたにとって日本語が母国語なのです、と。

 

彼女がどんなに流暢にフランス語を話せたとしても、フランス語は彼女にとって外国語なのである。

 

別にその若くて美しい日本女性を責めているのではない。

(彼女が責めてくださいと懇願するならば、責めることにヤブサカではないが)

 

私が言いたいのは、人は考えるときは、特定の言語で考える、ということである。

それは人の思考がその言語で定められた限界を超えることはできないということである。

しかし日本語とフランス語は異なる言語であるが、言語であることに変わりはない。

その証拠に日本語の文はフランス語に翻訳することができる。

つまり日本人の思考も、フランス人の思考も似たり寄ったりの限界を持っている。

 

ところが人は言語とは本質的に異なる表現方法を持っている。

それは数式である。

 

日本人は「AとBは等しい」と(日本語で)考えて、A=Bと記述する。

ではA=Bという数式は「AとBは等しい」という日本語を「数学語」に翻訳したものか。

否、断じて否である。

数式は言語ではない。

 

英語のできない私にはP.A.M.Dirac

『THE PRINCIPLES OF QUANTUM MECHANICS』

は読めないが、しかし幸いにして、その本は日本語に翻訳され『量子力学』というタイトルで岩波書店から出版されている。

量子力学 原書第4版

だから、私は読もうと思えば読むことはできる。

しかし私は、それを読んでも理解できないことを理解している、という点で偉大である。

私は日本語は人並みにできるが、数学はまったく駄目である。

そして、残念ながら『量子力学』においても数式は原書のままで、日本語には翻訳されていないのである。

 

数学は苦手だが、量子力学は理解したい、そんな人に私は声を大にして言いたい。

数式抜きで量子力学を解説している本を読むのは時間の無駄である。

そのような本から得られるのは量子力学に対する誤解だけである。

 

さらに声を大にして言いたい。どうせ時間を無駄にするなら

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