シュレディンガーの狸

このブログがなぜ"シュレディンガーの狸"と名付けられたのか、それは誰も知らない。

元始、女性は太陽であった(2)~凡人に潜む天才~

元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。

今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。

『元始、女性は太陽であった』の冒頭である。雷鳥は同時代の女性を男性に依存・隷属するしかない「病人」に喩える。当時のいわゆる良妻賢母という理念は雷鳥にとっては「病気」にすぎないのである。この「病人」を「治療」するに必要なものは何か。雷鳥とともに日本初の婦人団体新婦人協会を設立した市川房江ならば、社会的・政治的制度の改革であると答えるであろう。また母性保護論争において雷鳥を批判した山川菊枝ならば社会主義革命であると答えるであろう。雷鳥の答は二人とはまったく違う。雷鳥にとって必要なのは「精神集注」である。

私は精神集注の只中に天才を求めようと思う。天才とは神秘そのものである。真正の人である。

ただし「精神集注」によって得られる「天才」とは通常の意味のそれとは違う。それは凡人の中にも潜んでいる「天才」なのである。

私どもは我がうちなる潜める天才のために我を犠牲にせなばならぬ。いわゆる無我にならねばならぬ。(無我とは自己拡大の極致である。)

雷鳥は「天才」が顕現しないのは、言い換えれば「真正の人」になれないのは自我のためであり、「精神集注」によって自我を滅ぼし、無我にならねばならないと主張する。

また「天才とは神秘そのものである」という主張について次のように補足する。

今、私は神秘といった。しかし、ともすればいわれるかの現実の上に、あるいは現実を離れて、手の先で、頭の先で、はた神経によって描き出された拵えものの神秘ではない。
夢ではない。私どもの主観のどん底において、人間の深き瞑想の奥においてのみ見られる現実そのままの神秘だということを断って置く。

 「拵(こしら)えものの神秘ではない」神秘、「現実そのままの神秘」とは一体なんであるか? だが、この点に関しては後の記事で考察することにして、ここでは雷鳥の言う「天才」について論じる。

男性といい、女性という性的差別は精神集注の階段において中層ないし下層の我、死すべく、滅ぶべき仮現の我に属するもの、最上層の我、不死不滅の真我においてはありようもない。

「天才」とは「精神集注」によって「中層ないし下層の我」を滅ぼしたときに現れる「最上層の我、不死不滅の真我」である。この「精神集注」が「極度の注意」と等価であると仮定すると「極度の注意は、宗教的なもの以外には存在しない」ことになる。実際、雷鳥が行った「精神集注」とは具体的には座禅であった。

ところで「極度の注意は、宗教的なもの以外には存在しない」と語ったのは雷鳥ではなく、シモーヌ・ヴェイユというフランスの女性である。彼女はこう語る。

わたしたちは、この世では何ひとつ所有していないのだ  偶然がすべてを奪い去ってこともあるのだから  ただ〈わたし〉と言いうる力だけを別として。この力こそ、神にささげねばならない。すなわち、これをほろぼさねばならない。重力と恩寵 (ちくま学芸文庫)p49

〈わたし〉わたしと言いうる力をなくした人は、もはや「わたしは女性である」とも「わたしは男性である」  とも言うことができない。真正の人(雷鳥によれば凡人の中に潜む「天才」が顕現した「真我」、ヴェイユによれば「〈わたし〉わたしと言いうる力」を神に捧げた人)には性的差別がない。それどころか、「わたしは日本人である」とも「わたしは医師である」とも語ることができない。真正な人には国籍も、職業も無い。真正な人は何者でもないのである。

雷鳥ヴェイユは似ている。しかし決定的な違いがある。