シュレディンガーの狸

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数とは何か? ~数の単位としての複素数の考察~(2)

数記号を名、例えば「実数」という名で定義しようとするとき、式という形式を使用することはできない。そこで”a=実数と記述する代わりに、私は

a~実数                                              (文A

と記述する。記述「~」左右いずれか(または両方)に非数学的対象を配置する表現形式をということにする。文の左側に存在する対象を主部、右側に存在する対象を述部という。そして”a~実数”という文は数記号を言語的に定義している。その結果、数記号は言語的要素となる。

言語的対象について、それが単純な対象(基本的要素)なのか、そうでないのかを論じることは無意義である。例えば「実数」は「実」と「数」という二つの基本的要素によって構成されたものなのか、「実数」というひとつの基本的要素なのかを論じることは無意義である。あるいは例えば、二つの文”a~実数b~実数”は

a,b~実数                                           (文A-1

という形でひとつの文にすることができるが、この文における”a,b”abによって構成された対象なのか、そうでないのかを論じることは無意義である。ただ確実に言えることは”,”が数学的符号ではなく、したがってabはその符号によって物理的に分離されているだけであって、数学的に結合しているのではないということである。また(文A-1)はabを主部とする二つの文から合成されたものであって、いつでも二つの文に分離することができる。

それを [a,b]と記述するとき、それは[a””b]”が物理的に分離されているという解釈も可能であるが、しかし、これを

[a,b]~複素数                                      (文A-2

という文の中に置くとき、(文A-1と同じ解釈をとるならば、(文A-2)は[a~複素数という文と”b]~複素数という文に分割されることになる(実際、量子力学の世界ではa~ブラベクトル”b~ケットベクトルと定義される二種類のベクトルが登場する)。[a,b]の場合、述部は同じ「複素数」という語である。だから括弧[]abを物理的に結合させるために存在していると解釈すべきである。 [a,b]はひとつの対象であり、それは複素数が二つの実数の組、一対の実数であることを意味している。

言語的対象[a,b]複素数の言語的表示という。複素数の言語的表示におけるa複素数の実部といい、bをその虚部という。

X~[a,b]Y~[c,d]

このように(言語的に)定義されるXYは本来的な名、すなわち意味のある記号ではない。強いて言うならば、それらは数記号的な名である。もし[a,b][c,d]が数学的対象ならば、XYは数学的に、すなわち定義式によって定義されたであろう。そのような名、すなわち(意味ではなく)言語的定義を有する名を、その定義に固有の名という意味で固有名という。固有名は本来的な名(普通名詞)ではなく、意味のない名、すなわち固有名詞(人名や地名など)に近い存在である。

固有名XYについて

X+Y~[a+c,b+d]                                (文B-1

XY~[acbd,ad+bc]                           (文B-2

と語る。二つの文の主部X+Y XYは数学的対象ではない。両者は象徴である。象徴とは、数学的対象ではないにもかかわらず、特定の数学的対象に見える記述である。X+YXYの和ではないが、両者の和に見え、XYは両者の積ではないが、積に見える。要するにXYは数学的に結合しているのではないが、そのように見えるということである。X+Yは和の象徴であり、XYは積の象徴である。そして(文B-1)の述部は複素数[a,b][c,d]の和の言語的定義であり、(文B-2)のそれは両者の積の言語的定義である。

文の中に登場する象徴については、それが象徴であることを強調することに特に意義があるわけではない。ある記述が(数学的対象ではなく)象徴であることを強調しなければならないのは、それが式の中に存在する場合である。例えばdf=(F/x)dx+(F/y)dyという式の中に存在するF/x,F/yは象徴である。偏微分商は分数ではないのに分数に見えるように記述された数学的象徴である。

数学的象徴は複数の要素で構成された対象ではなく、単純な対象である。すなわち数学的象徴とは分解不可能な基本的要素である。微分df/dxは二つの数記号dfdxによって構成された対象(分数)であるが、偏微分F/xはそうではない。それを数学的要素に分解することはできない。Fxという数記号は存在しない。数学においては、この要素の不在において、ある記述が象徴と判断される。ちなみにx微分dxは、それだけを見ると、dxの積に見える象徴であると考えられる。しかし数記号dの不在によってこの考えは否定される。もしそのような記号が存在するなら、それはd=0と定義されるか、df/dx=f/xという式が成立するかのいずれかでなければならない。しかし、そのいずれもが無意義である。しかし記号xが存在することは事実であるから、記号xdと融合しているのであり、この融合によって、新たにひとつの記号dxが誕生したと考えるべきである。しかし後に見るように文においては、df/dxd/dxfに分裂するという事態が起こる。そのとき分裂した両者が融合した結果である(d/dx)fは、もちろん数学的対象ではない(ただし数学や物理学の教科書の中には、そのような記述が、しばしば登場する)。

(続く)

 

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